訃 報

2007年1月28日惜しまれつつご逝去されました。

享年79才

心よりご冥福をお祈り申し上げます



故L深沢博和を偲ぶ          L.渡辺公久
 
 結成50周年を2年後に控えた姫路鷺城ライオンズクラブにとって、クラブ運営に活躍された、L.深沢博和の突然の訃報に接し、会員一同その余りにも早い御他界と鷺城の失った損失の大きさを想い、しばし呆然自失し、御遺族に対するお慰めの言葉にも窮する程の心の痛手を受けました。
 彼のご父君故L.深沢初治は、知る人ぞ知る鷺城クラブ創設の立役者であり、五代目会長に就任のあとその温厚篤実な人柄と卓越した経営手腕を買われ、L.小国博之(姫路LC)に続き、姫路鷺城LCから初の302-W6地区(現335A&D)ガバナーに選任された当地区ライオンズの重鎮的人物であった。初めてキャビネットを運営する責務の重大さを痛感し、会員は一丸となって無我夢中で働いた集大成である年次大会は、前日は雨であった。参加者に渡す記念品袋にビニール製傘袋を追加することに急遽決定しその作業は深夜まで続いた。「大会当日は朝から青空で上天気。あんな嬉しかったありませんわ!」 ガバナー就任一年間の印象を訊かれた時、こう返事して目を細めて笑う故L.深沢であった。「黄色い帽子かぶって、西鉄ライオンズの応援団でっか?」 一般市民からこんな質問を度々受けた(故L.妻鹿正三郎の話)ライオンズ創世時代は、会員一人一人がライオニズムの高揚に真剣に取り組んでいた様に思われる。
 ご父君の後を継ぎ、二世会員として入会してきた故博和ライオンは、まだ学生のような童顔で、実に若々しかった。しかし会の挨拶は堂々として実に立派な挨拶をされた。むべなるかな、その時は彼は既に深沢農機(株)の二代目社長として業界の注目の的になっていた。悠然とのっしのっしと歩く姿を見て、「お父さんそっくりやなー」と思わず微笑み、一同若き同志の入会に熱い歓迎の拍手を贈ったのである。父親ゆずりの温厚篤実さに加え、若さゆえの行動力と理路整然とした話術に惹かれ、若手グループの中心としてクラブ運営に新たな波紋を投げかけてくれた。また鷺城会(ゴルフ同好会)の運営にも活力を入れてくれた。粟賀ゴルフ場で久しぶりに一緒にプレーした時のこと。出だしの1番ホールで私はパーをとり、彼はボギーであった。「その歳でここでパーをとるとは信じられまへんで!見事やな!立派やな!」との彼の余りにも真剣な褒め言葉に浮かれて、次のホールのティーショットを左に引っかけオービー!同伴者故L.名村とL.薮口はげらげら笑うが、彼だけは「しかしあのパーは見事じゃ!」と尚も褒め続ける。会食でこれが話題になり大爆笑!「L.渡辺の、お見事オービー」として暫し有名になったものでした。
 深沢君は本当に真面目で温厚な人柄でありました。二男一女も立派に成人され、大勢のお孫さんに囲まれて、他人もうらやむ暖かい家庭の突然襲った悲劇に、会員一同はお慰めする言葉もありません。
 故L.深沢初治、故L.深沢博和と親子二代にわたり姫路鷺城ライオンズクラブの創世と発展に全力を尽くして下さった事を私たちは忘れません。お二人の功績を讃え、ご冥福をお祈りいたします。どうぞ永久に安らかにお眠りください!合掌

  

L.深沢博和ライオンズ歴

入会 昭和49年2月
1974年度 PR委員会
1975年度 計画委員会
1976年度 計画委員会
1977年度 出席委員会
1978年度 年次大会委員会
1979年度 テ-ル・ツイスタ-
1980年度 環境保全委員会
1981年度 ライオン・テ-マ-
1982年度 年次大会委員会
1983年度 公衆安全委員長
1984年度 国際サ-ビス委員長
1985年度 市民委員会
1986年度 会員・指導力開発委員会
1987年度 社会福祉委員会
1988年度 理事2年
1989年度 理事1年
1990年度 出席委員会
1991年度 第3副会長
1992年度 市民委員会
1993年度 計画委員会
1994年度 市民委員会
1995年度 出席委員会
1996年度 国際委員会
1997年度 財務
1998年度 情報・PR委員会
1999年度 1年理事
2000年度 2年理事
2001年度 財務・会則委員会
2002年度 国際・青少年委員会
2004年度 保健・社会福祉副委員長
2005年度 保健・社会福祉副委員長
2006年度 運営委員会