訃 報
2006年4月24日惜しまれつつ100歳でご逝去されました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます
L..石川正次 享年100歳
故L.石川正次を偲ぶ L.渡辺公久 |
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チャーターメンバーであり、クラブ最年長者として全会員の畏敬の的であったL.石川正次が、遂に不帰の客となられた。平成18年4月24日、享年百才であった。 姫路鷺城LCは、結成当時より10名以上の医師が常時在籍する正に新進気鋭の医者クラブであった。私は入会式の日、会長L.清水一雄(内科医)の前で宣誓を終えあと、顔見知りの先生方に挨拶をすべく、まず石川先生の席に向かった。「先生、お久しぶりです。入会しました。どうぞ宜しく。」と述べた所、「京子お嬢ちゃんはお元気ですか?」「え?」当時既に40才を超えた妻をお嬢ちゃんと呼んでくれた先生は、何とも優しいまなざしで微笑んで居られた。その時の先生の心中には、セーラー服の幼い少女であった妻の姿しか思い浮かばなかったのだろう。石川先生の慈父のような優しさに触れ、大感激した一瞬であった。 妻の父は、戦中戦後にかけて姫路日赤病院長の職にあり、休日には若い医局員たちを自宅に呼んで酒を飲み交わし、相手をへべれけになるまで飲ますのを唯一の楽しみとしていた変った医者であった。当時外科部長でおられた石川先生もその被害に何度も会われたことであろう。何しろ先生との付き合いは、妻の方が遥かに長かった。 クラブ最年少者のL.高石博行が、会員スピーチで野球の話をする為に木製バットを会場に持って来たことがある。まだ高校生と見間違う若いL.高石の話を目を細めて聞いておられた先生は本当に好々爺であった。しかし、そのバットがテーブルに回って来て、皆で「これは重い」「いや、軽い」と言い合っている時、突然先生が「どれどれ」と手を延ばし、スックリ立ち上がるやブンブン振り回す格好をしたものだから、周りの3、4人が「先生、やめてぇー!」と頭を抱えた。<君たち、先生がスポーツ万能選手あることを知らないのか!>その時の先生のお顔は、好々爺からいたずら好きの腕白少年の顔に変っていた。 スポーツ万能、多趣味多芸の先生は、どれもが玄人はだしの腕前であった。米寿の年に呉清源名人との対局は正に衆目を引くエポックであった。又子供スポーツの振興にも尽力され、日本卓球協会、県体育協会、等より数々の表彰を受けておられる。 ここで、本業の医業についての功績を語ろう。陸軍軍医中尉として中支より南方総軍ビルマ方面軍野戦病院へ転属され、不眠不休で傷病兵の治療にあたっていた。時は同じ、同じラングーンの空の下で、私は陸軍主計少尉として敵の残したトラックを運転して、敵弾降り注ぐ中を前線の兵に食糧を運んでいたのである。そして終に、敗戦、捕虜、そして不思議に命ながらえて二人は故郷の土を踏むことが出来た。しかし、この二人の希しき運命について、互いに話りあうことはなかった。先生はその間に、武勲を讃える勲六等旭日章と勲五等瑞宝章を賜っている。 戦後の呉服町で開業され、次いで別所町に現在の病院を建設された。その間に授かった4人の男子を見事に成長させておられる。長男の誠さんは現在の院長先生、斉さん、忠さん(弁護士)、治さん、と錚々たる医師兄弟である。 高齢のため歩行が困難になられた時に、先生を例会場まで送り届けてくれたれ白衣の天使、谷口婦長さんの功績も忘れられない。例会中隣に座って先生のお世話をすることにした。段々寡黙になられ、時には居眠りをされる。例会の席に居るだけで満足して居られる様子がありありと分かる。名前を呼ばれた時には、先生の膝を軽く揺すり「先生、呼ばれてますよ」と言うと、「はい」と答えて目を開ける。柔和な目であった。それが数か月続いた後に入院されることになった。 昨年の10月中旬、思い立って石川病院を訪れた。日当たりの良い部屋で入り口に背を向けて、車椅 子に座って居られた。頭を垂れ目を閉じて眠っている。例会で時々見せた姿である。このまま静かに帰ろうか?しかし衝動的に声が出た。「先生、お久しぶりです!」先生は頭を上げ、瞼を開いた。そして一瞬後、「おお!」と声を上げられた。そして柔和な目に光が走った。私の頭の中で40年の歳月が逆走した。あの時は「京子お嬢ちゃんはお元気ですか、」と言ってくれた。待った。もう一度聞きたい、先生の声!しかし、先生は静かに目を閉じ、頭を下げてしまわれた。思わず細くなった手を握りしめ叫んだ、「先生、どうぞお元気で!いつまでも、いつまでも」最後は嗚咽で声にならなかった。 帰途、母の見舞いを兼ねて同行してくれたL.松田彰と話した。(彼の父、L.松田道別も私と大の仲良しであった)「先生は確かにおおと言ってくれたな」「そうですね」「私だと分ったんだよ」「そうですね」「この調子だとまだまだ長生きされるね」「そうですね」等と、L.松田はいちいち相づちを打ってくれた。無性にうれしかった。 そして、今度のL.石川の突然の訃報に、私は余りの悲しさに一人で居る事ができず、お通夜にL.石川 を好く知る誰かに側にいて欲しくて神谷邦子に電話した。彼女は1961年ライオンズ第一回YE事業に当クラブが派遣した当クラブが誇る国宝的女性であり、産婦人科医L.神谷登の長女である。一も二も無く、通夜・葬儀にずーっと付き添ってくれた心優しい神谷邦子と別れ、一人寂しく家に帰ると今年82才になり頓に足が不自由になった妻が待っていた。「私をお嬢ちゃんと呼んで下さる方は、もうこの世におられないのね!」と、ぽつんと言った・・・・・ L.石川、本当に長い間クラブのために、また多くの方のためご尽力された事、本当にご苦労さまでした。貴方の事はいつまでも皆の心に残る事と思います。ご冥福をお祈り致します。 |
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